【090-7/9話】甘草の故郷を訪ねて/敦煌
敦煌/莫高窟と月牙泉(9月26日)
酒泉から安西へ
「酒泉」まで来たのだから、一日休暇をとって「敦煌」まで出かけようと話がまとまりました。
ただ、結構距離のある行程なので、出発は朝5時となりました。北京時間で考えると2時間の時差、真っ暗な寒い朝の旅立ちでした。案内に、と甘粛省医薬保健品進出公司の陶氏が同行してくださる事になりました。
「嘉峪関」を過ぎ、「玉門」から道が北に向かう頃、右手、東のゴビの地平線に太陽が顔を出しました。午前7時20分。道がまた西に向きを変えたとき、正面に朝日に輝く雪を頂いた祁連山脈が目に飛び込んできました。4500メール級の嶺を連ね、万年雪を湛えた山容は、幾千年の昔から、この地を旅する旅人の心に荘厳な感動を呼び起こしたに違いありません。
今までにもいくつかの橋を渡りましたが、多くの川は水無川でした。夏が暑いと、川には水が溢れ、田畑に水が行き渡ります。祁連の雪解け水が大地を潤すのです。
安西の風
西域には三つの名所があります。「吐魯蕃(トルファン)」の熱砂、「烏魯木斉(ウルムチ)」の極寒、そして「安西」の強風です。
今まで穏やかだった風景が、次第に風の風景に変わろうとしています。全ての街路樹は一方に傾き、砂塵が通り抜けます。生暖かい風は風の道を通って、東から西に吹いていました。
「安西」で、清真料理の食堂に入り、急いで、麺をかき込んで早々に出発です。食堂は日曜日のせいか、家族連れが多く、その楽しげな食事の場をがさつな一団が壊したんではないかと恐縮しきりでした。
「安西」から「柳園」を経て「烏魯木斉」へと向かう道に別れを告げ、「敦煌」を目指します。風は益々強くなってきました。敦煌までは、何処もこれ以上吹き飛ばすもののない程ののっぺんだらりとした景観が続きます。それでもよく見ると、土にしがみついて、麻黄に似た矮小の草が見られます。
井上靖は小説「敦煌」で、此処での戦闘の場面を描いていますが、後日、当地を訪れた際に、「この景観を見ていたら、もっと違った闘いを描いていたと思う。」と述懐しています。それほどまでに、想像を絶する風景です。
野生の駱駝が群れています。ゴビとは違った砂漠のにおいがします。「敦煌」は間近です。
敦煌/莫高窟
前漢の時代「沙州」と呼ばれていた「敦煌」はその名の通り砂に囲まれた街です。敦煌は漢の武帝が置いた河西四郡(張掖、武威、酒泉、敦煌)の一つで、西域に対する最前線の軍事拠点として重要な位置を占めていましたが、敦煌を有名にしているのは、中国三大石窟のひとつ莫高窟だと行っても過言でありません。
西夏、吐蕃の異民族を含めて、歴代の王朝は仏教をシルクロードの交差点に開花させ、「砂漠の大画廊」と称される石窟群を綿々と造営してきました。
以前、NHKが取材し、奈良で「大シルクロード展」が開催された頃から、一度は訪れてみたいと思っていたその敦煌に今立っています。大きな感動がわき起こってきました。
奈良・法隆寺の飛天の源流は此処にありました。千年以上も前の色彩が鮮やかに今に留められているのは、この乾燥した風土のお陰です。解放窟27窟を全て見て回るのは、時間の問題だけではなく、ガイドが持っている窟の鍵によるのです。見たい窟が見られるのではなく、ガイド任せと言うことが現地に来て判りました。
鳴沙山/月牙泉
砂漠を行く駱駝を納得よくイメージできるのは鳴沙山でしょう。敦煌の観光ルートのメインでもあります。
砂漠のオアシス「月牙泉」まで駱駝の背に揺られていく事になりました。座っている駱駝に跨ってから、駱駝が立ち上がります。その際、先ず、後ろ足を立てますが、その時背中が45度程傾き、振り落とされそうになりました。双こぶ駱駝の背は思った以上にゆったりとしています。
砂漠の舟はゆっくりと月牙泉へ進みます。風が強く、吹き飛ばされそうになる帽子を押さえての行軍は、さながらインディジョーンズの世界でもありました。Kさんの姿が「アラブの盗賊のようだ。」との批評に、「それを云うならアラビアのロレンスと云うてくれ。」との本人の一言に他の者は白けました。
往復50元。まあまあ満足で戻ってくると、いつの間に撮られたのか駱駝上の雄姿?が写真に。一枚70元に口があんぐりです。観光地は何処もがめついですね。
敦煌の「銀都酒店」で湖北料理を堪能しました。久々に清真料理から解放されたように思えました。「酒泉」へ戻ります。走行距離860キロ。今日もよく走りました。(続)
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